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01/05/27に更新。

 
寿という町

寿町の位置
 寿という町は横浜市のほぼ中央に位置しています。寿地区は、行政の区画でいえば、横浜市中区の寿町・扇町・松影町からなります。近くには、中華街や横浜球場、横浜庁舎があります。最寄り駅はJR根岸線・石川町駅で、そこから歩いて約5分です。
 寿は、大阪の釜ヶ崎、東京の山谷に次いで日本で3番目に大きな寄せ場(ドヤ街)です。 町の広さはおおよそ400m2。そこに約90軒の簡易宿泊施設(ドヤ)が建ち並び、日雇い労働者を中心に約6,500人の人々が生活しています。
 
日雇い労働者
 横浜といえば港。港湾労働を中心に土木・建築など、戦後の復興から高度経済成長を文字どおり身体で支えてきた日雇い労働者の町、それが寿です。住宅やビルを建て、道をつくり、公園を開き、橋を架け、電線を結ぶ・・・輸出・輸入も含めて、日雇い労働者は社会の基礎的な部分を担っています。
 日雇い労働者はその日に雇われ、その日に解雇されます。何の保証もありません。「3キ労働(きつい・汚い・危険)」と呼ばれる仕事で、体を酷使して働きます。土木・建設関係の労働災害発生率は、他の業種に比べて飛び抜けて高いのです。重層的な下請け構造の中で、企業責任の労働安全衛生責任はあいまいにされ、休業保障もほとんどありません。そればかりか、働いても賃金を払わなかったり、労働災害を隠したり・・・。
 今、アフターバブルで仕事のない厳しい日々が続いています。中福祉事務所への相談者数は毎日500人。金曜日となれば700人にもなっています。仕事が滅法減り、660円のパン券を得るために何時間も福祉事務所に並ばなければならないなど、「医・衣・職・食・住」をめぐる生存権が脅かされる厳しい常態にあります。
 
寿の歴史
 ここ横浜の「寿」という華やかな名称には歴史的理由があります。港 横浜の開港後、貿易の発展とともに市街地の不足や居留地拡大の外圧の中で、調整池だった南一つ沼の埋め立てが図られます。難工事の末 完成はしたものの、不況のため土地は売れず、関係者の没落で幕を閉じたそうです。この埋め立て7ヶ町には、松影・寿・扇・翁・不老・万代・吉浜という関係者の夢を語る名前がつけられました。
 1945年、寿は焼け野原と化し、占領軍に接収され米軍の資材置き場となりました。接収の解除は1955年。 敗戦直後、横浜には多くの日雇い労働者がいました。戦災・失業・復員などの条件以外に、占領軍の存在と食糧難が理由です。港湾施設が破壊された後の占領軍の軍貨揚陸には膨大な労働力が必要となり、毎日1,000人もの日雇い労働者が雇用されたと言われます。この他に穀物(学校給食など)、1950年からは朝鮮戦争による軍需産業と輸出。1960年頃からは高度経済成長。こうして全国から失業者が横浜に集まってきました。港は昼夜の区別なく回転し、体力のある労働者は稼げるだけ稼ぎました。
 寿で最初のドヤが立ったのは1956年のようです。「ことぶき荘」という名前で、現在の「亜歩郎」(喫茶店)のあたりです。以後、1960年までに63軒のドヤが建ったといいます。住むところのなかった労働者たちが、新しく建っていくドヤに住むようになっていきます。職業安定所が野毛から寿に移転し(1959年)、「闇求人」の本舞台も後に寿に移っていきます。ドヤ街+寄せ場としての寿はこうして生まれました。
 
 以上は「寿ドヤ形成史」(『ことぶきに生きて』と『寿共同保育−寿ドヤ街での9年間』に所収)を主に参考にさせていただきました。

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