始まり〜生活館拠点時代
寿生活館の3階と4階は1972年6月1日に増築してオープンします。3階は子供たちのホール、4階は労働者の娯楽室として。これを機に寿の活動は労働者と子供を軸としたものに変っていきます。越冬もその始まりから寿生活館が拠点でした。
1973〜74年のオイルショックは“日々雇われ”“日々解雇される”日雇い労働者を仕事のまったくない厳しい状態へと追い込みました。港の仕事が多かった寿では、日雇い労働者の多くが1ヶ月に3日程度しか仕事がなくなり、生存権そのものが否定される状況でした。町の労働者たちは「炊き出しをやる者はおらんか」「俺も一緒にやらせろ」と大衆的に寿地区越冬実行委員会を結成し、
- 仲間からひとりの死者も出すな。
- ひとりは皆のために、皆はひとりのために。
を合い言葉に闘いを始めます。
寄せ場の現在の活動の出発点が、山谷と釜ヶ崎では高度経済成長期の「暑い夏の叛乱」であったのに対し、寿は大量失業時代の「凍てつく冬将軍との闘い」でありました。1975年2月、横浜市行政は不況対策をしないまま越冬対策を打ちきり、生活館に機動隊を導入。後に生活館を封鎖します。寿の労働者は越冬闘争の中で寿日雇労働組合を結成(1975年5月)し、1日2回の炊き出し・人民パトロール・医療活動を400日にわたって取り組みました。
テント越冬〜プレハブ越冬
生活館封鎖以降の越冬は、寿児童公園にテントを自分たちで設営し、そこと拠点として闘われました。テントは宿泊場所ではありませんでした。野宿者の宿泊は、身体の具合がとても悪い人を例外として、すべて行政の対応する施設かドヤ。テントは越冬本部であり、医療班であり、人民パトロールの出発と集約の場所であり、越冬闘争全体がそこから始まりそこに戻ってきたのでした。炊き出しやパトロールなど越冬の活動内容は現在とほぼ同じです。
第15次越冬闘争から「プレハブ越冬」になります。横浜市行政はドヤ代高騰などの理由により「ドヤの確保が困難」として、寿児童公園にプレハブを建設し、これ以来、現在に至るまで「プレハブ越冬」が続いています。
プレハブの管理運営を横浜市行政に委ねれば、福祉事務所職員が担うのではなく、民間の警備会社と市が委託契約を結ぶことになります。プレハブ宿泊者にとっては、威圧的なガードマンによる管理と監視の厳しい生活になってしまいます。また、横浜市行政としては、寿の町の中でなく遠い場所に年末年始の仮の宿泊施設を設営していこうという方針です。しかしそれでは「収容所」と変りがありません。越冬闘争のひとつとして、町の中にあり、日雇い労働者・野宿者の自主的な休息・情報交換・元気回復の場であるべきです。宿泊者による自主運営・人民パトロールへのさんか・交流会への参加を毎回呼びかけています。
まつかげ一時宿泊所
横浜市は1994年6月「野宿生活者の自立更正をはかる」ことを目的に「緊急一時宿泊所」の設置を決めました。寿町近くの松影公園で9月から工事が始まり11月に完成。1994年11月9日から宿泊者が入所しています。「横浜市内で野宿していて、病弱・高齢などの理由で緊急に宿泊が必要な人」が入所対象者となっており、定員は70人。越冬期には140人の宿泊を予定しています。女性は原則として受け入れません。施設の運営は市が神奈川県共済会に委託し、職員10人・アルバイト5人で運営。入所の相談は各区役所の福祉事務所です。
この宿泊所は構想段階から問題をはらんでいます。第1に緊急保護の取り扱いは、様々な歴史的経緯から寿町の地元組織である住民懇談会との話し合いが前提とされてきましたが、市は事業計画の大枠が決まってから説明をしただけ。第2に福祉事務所の休庁期間・夜間の受け付けはできず、実質的には緊急には対応できない状況です。第3に宿泊所では920円相当の弁当が配布されますが、中福祉事務所で配布されるパン券は679円(消費税込み)で格差があります。第4に宿泊所は暫定的処置で、5年で解消となっており、その後の方針が打ち出されておりません。寿地区住民懇談会ではこれらの問題の解決を求めて市との交渉を行っています。
泊まった人の、まつかげ一時宿泊所の評判はいいものです。職員は、ドヤを1軒1軒回って関係をつくり、ドヤ券対象の内の半分から「空き部屋情報」が入るまでになりました。所長は自らバリカンを持ち込み、宿泊者の散発をしています。